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【小説感想】神林長平「いま集合的無意識を、」

【あらすじ】
SF短編6篇。
「ぼくの、マシン」…戦闘妖精・雪風シリーズのスピンオフ。深井零が子供の頃、パーソナルコンピュータの時代は終わろうとしていた。零は、自分だけの機械を欲しがる。

―だれが、なにをやらせたのか、わからない。わけのわからない仕事にぼくのマシンがつかわれるのはいやだ。


「切り落とし」…奇妙にディスプレイされたバラバラ死体が発見される。謀殺課の刑事に、容疑者として疑われると自覚したDJ(ダイレクト・ジャックイン・システム)探偵は、仮想空間で取り調べをシミュレートする。

世間が現実と認めたことは、自分がそうではないと思ったところで、そうなる。自分のほうが仮想にされてしまうようなものだ。


「ウィスカー」…子供の頃は誰でも心が透視できる精神感応という能力を持っている。ぼくは、ママや友達に嫌われている。ママの化粧台の引き出しから見つけた生物ウィスカーは、ぼくを慰めてくれる。

常識ではこれが猫であるはずがない。でも、やがて猫になる、そうぼくは確信した。そのときウィスカーはぼくのもとから去っていくだろう。猫は気ままな生き物だから。


「自・我・像」…老人のドゥウェル氏は、近頃自分に反対してくる心の声が聞こえてくるので、話しかけてみる。九歳の孫娘がメイド服で現れるが、それは九歳の少女ではなく孫娘に化けたメイドだったので、この女に食われる。と思った。それに驚いたのがドゥウェル氏の操作をしている部下の上司だ。

『蚕が桑の葉っぱを端から食べていくさまにたとえて、他人や他国の財産や領土を端っこからじわじわ奪い取り侵略していくこと』
とドゥウェル氏は言って、その自分の言葉に驚く。自分の意志で発したものではないからだ。


「かくも無数の悲鳴」…拳銃一丁で宇宙を渡り歩き、遙か昔、異星人に侵略されて滅んだ人類の故郷<地球>にやってきたおれは、気色悪いゴキブリの集合体に負けそうになったが馬頭人が助けてくれた。おれは、量子的なゲームのプレイヤーですらなく、賭けの対象である駒なのだという。

「スコッチを、ダブルで」とおれは言った。
『ゴールだ』と馬頭人のバーテンが答えた。『上がり、だ』


「いま集合的無意識を、」…311地震を期にインターネットコミュニケーションサイト「さえずり」をやるようになったSF作家。ある日、自身の書き込みに対して、返答が現れ、そして衝撃的な文字列が表示された。

「ぼくは伊藤計劃だ」
その名はぼくにとっておそろしくリアルなものだ。虚構ではない、現実そのもの、だ。


【途中までネタバレなし感想】
全体的には表題通り、集合無意識的な、特にネット上で交じり合う人間の心について書かれていました。
でも、一方で、他人などいなくて、ひたすら自分だけの心の動きを書いているようにも錯覚します。

複数の話で、自問自答の要素があります。相手がそう思っているのだと結局自分が思っているだけだ、と気づきかけているものの、一方で、そんなこと自分は考えない、と違和感もあるのです。
しかし、知らないもう一人の内なる自分が、いないとも限らないのですね。

本書には、<わたし>という意識こそ、意識が生んだ最強のフィクションである、という意見が出てきます。
さらに、フィクションを映すスクリーンとしての意識野が体外に出ているのがインターネットだというのはイメージしやすいです。

「ウィスカー」のように、複数視点で書かれた物語では、いかに<わたし>という物語が危ういかよく分かりました。
本人の考えでは、大変筋が通っており、そうとしか思えないのに、他から見れば、まったくの的外れなのです。
では、誰かが間違えた考えを持っているということが真実であれば、周囲は、間違えまで含めて見抜かなければ真実にたどり着いたとはいえなくなります。
真実とは、自他虚実を貫いてうねる帯のようなものなのかもしれません。
「いま集合的無意識を、」では、リアルサイドの「知識」とそれを解釈するフィクションサイドの「意識」をバランスよく不可分に持っているのが人間だとして、伊藤計劃の小説ではそれを単独で存在させるSF的発想を見せたのだといいます。しかし、著者の分身と思しきキャラクターは、フィクションの力を失う人類の未来に警鐘を鳴らしています。<わたし>というフィクションが生み出す文学や漫画などの創作が滅ぶだけでなく、想像力が欠如により、知識としては分かっているはずの、危険予測がきなくなるのです。
わが身に置き換えて考える。つまり共感性の源でもあるんでしょうね。それならば、古典SFでも、人間とそうでないものを分けるものとされています。

量子力学を扱った「かくも無数の悲鳴」には、観測者がいなくても量子の属性は存在するとする<深在性>があるかないか、という問いが出てきます。また、その両者が同時に成り立つ多次元宇宙論も描かれています。
二重スリット実験で、二つのスリットを同時に通る光子の視点で書かれた文章は初めて見たので大変面白かったです。
両目の間に人差し指を立て、二つのスリットが重なる視覚像の時に飛び込む。体感として理解できました。
光子には自我はないものなのでしょうし、ましてや体や<見える>という状態がないので同じやり方できませんけれど、もし、一人ひとりの人間の意識が、分裂する世界を渡り歩いているのだとしたら、通り抜ける瞬間はこんな感じなのかもしれません。主観的には一つのゲートをくぐっているし、通り抜けてからの自己はその前と変わらないただ一人だと信じている。

二重スリット実験とは、ひとつの電子(または光や原子などとにかく物質)を一個ずつ飛ばし、二つのスリットのどちらかを通らねばならない状態を作り、その先に衝立(写真乾板)を置いてできた像を観測するものです。その時、一個の電子が、なぜか両方のスリットを通った時のような振る舞いをします。しかし、センサーでは、片方のスリットしか通っていないのです。結果をもっともまともに説明できるのは、「電子その他の物質は、観測される前は波だが、観測された後は粒子になる。」というものです。連続で一個ずつの物質を飛ばせば、スクリーンにたくさんの点を作って、結局、電子が波状であると仮定した場合と同じように跡を作ります。粒状の物質がどこに行き着きどこで観測されるかという、<可能性>の確率が波状なのだそうです。
私は以前、この実験について、「測機器から撮影や記録をするためのなんらかの波が出て電子にぶつかり結果を変えてしまっているのか?」と想像していたのですが、スリットを通る時点でセンサーにぶつかっていたら、スリットと衝立の間で何かがぶつかった時と同じような結果にはならないんですよね。
哲学や量子力学では、「見ていない間がどうであるかなんて分からない、その<可能性>がそのまま存在している」というスタンスみたいです。まだ科学オカルトを疑っていますが、数学としては正しいようです。
本書では、量子を、現実的な物質と同じ振る舞いをするとみなす仮定を提示しています。

量子論の「かくも無数の悲鳴」とネットや伊藤計劃について論じた「いま集合的無意識を、」は、別作品であり、全くつながりはなさそうですが、実体として確認しようとした時点でもうフィクションである<わたし>という意識が、その本体、とも言うべきものそのものとは違っていること。それがオンラインに投射されることのイメージと似ています。また、インターネットという集合的な意識野で暴走する<わたし>は、一個の人間で言えば統合失調状態である、という例えと、二つのスリットで分裂しているという点が近いです。

観測と実体ということで言えば、かなり矮小化した想像ですけれど、管理人がサーバ料金を払い忘れて「404 NOT FOUND」になっている、誰からもアクセスできないホームページは、<ある>と言えるのか、ということを考えました。
デバイスという窓を通さないと見えないインターネットのページは、空間的には存在していないようにも思えます。座標を持っていません。数字やデータ、としてはどこかのサーバにあるんでしょうけども。人間から認識しやすい形になっているサイトと、そのソースは別物ですしね。しかも、分かりにくい情報の羅列のほうが、たぶん、本体です。真実のあるがままの世界と、見えている、人間が認識する世界の関係性も同じようなものかもしれません。心は、本当に一人の人間の体の中に入っているのか。ぜんぜん別にあるのか。こういう発想が進むと、この本にも多く見られた、「誰かによって考えられている<わたし>」「きみの一部であるぼく」「この現実は仮想空間かもしれない」という妄想世界になるんでしょう。赤の王様、胡蝶の夢、マジカント、といった創作物やその他メタフィクションの類でも見かけるモチーフです。

【以下、ネタバレあり感想】

「ぼくの、マシン」
戦闘妖精・雪風は未読です。
子供時代の深谷零は、自分だけのマシンを欲しがります。しかし、実際にはオンラインから切断することはできず、他の人達に使われている事へ強い不満を抱きます。
この時、零は「どうせみんな、公衆便所みたいなくだらない使い方をしているのだ」、と決め付け、通信の中身を見ていません。
これは、法令順守意識や、マシンを取り上げられないため、というより、「穢れていない」というだけで、その他大勢のクズとは違うマシな人間だ、と信じたい防衛としての行動ではないでしょうか。
本文の中だけでも、マシンが、自動車のナビや恒星間距離の計算に使われていたことがわかっています。
もしかしたら、難病特効薬開発のための遺伝子解析がされているかもしれないのに。
零は、もしも自分のマシンが、そういった世のため人のためのクリーンで役に立つことに使われていたとしても嫌なのではないかと想像されます。なぜなら、

さきほどまでこのコンピュータは、自分の知らない、違う仕事をしていたというのに、素知らぬ顔をしている。そう思うと零は、なんだか、すごくもの悲しい気分になる。

と、まるで、下の兄弟が生まれて母親がかまってくれなくなったような、自分だけの親友だと思っていた子が他の人達と親しくしているのを不快に思ったような、子供じみた愛着と独占欲を示しているからです。
普通の平均的な人であれば、家の中や、親との関係性を通して安らぎの空間を持ち、自己を確かなものとして育てていくのでしょうが、零は、拠り所を持てず、自己の外部に、形あるマシンとして、拡張された自己を存在させようとしたのではないでしょうか。
しかし、それを得ることに失敗し、取り返す戦いもしなかったようです。コミュニケーションが戦いだとして、零は足場となる自陣を持てなかっただと思います。
「切り落とし」
DJ空間では誰もが分裂する。もう片方が戻ってくるとは限らないため、殺人が起こることもある。それを調査するのが謀殺課であるようです。
探偵は、仮想空間で他人の分もシミュレートしていました。沢山の人形を用意して全部自分で喋らせている状態なのでしょうが、日々のDJで、本人も気づかない他の自分が生まれていたのですね。とはいえ、犯人であったらしい探偵の一部と、それを知らなかった探偵の一部は、性格が極端に違うわけではありません。ベースとしては、仮想空間より現実主義であり、人工物よりも自然物を好み、何かと自らの手で行いたい人でした。しかし、法を守る度合い、良心、常識、それを自らに許している範囲が違うのですね。方向は同じだけど強さが違う。フィルタリングされている、という印象です。
仮想空間で性行為をしていたレズビアンカップルの一人は、探偵が侵入男の尻尾を掴まなければ、結局妄想だったのだ、とカウンセラーや探偵に思われていたのでしょう。本人は、勘違いだったと納得できたでしょうか。
今回、殺されている以上、侵入男は実在しているのですね。もしかしたらカップルの個室に混じっているのが探偵の別人格で、今回の侵入男は濡れ衣なんじゃないかとも思いましたが、探偵の性格上、仮想空間で手を出すくらいなら、無意識に現実で女性を襲ってしまっていそうです。
しかし、探偵が肉体を持った性行為を好むというのは、探偵のシミュレートに過ぎないので、自覚しているのと本性はずれるかもしれません。
殺人犯である部分の探偵が、犯人を突き止めそうになった部分の探偵を、仮想空間に閉じ込めるという形で殺そうとしましたが、もし死体として発見されていたら謀殺課は、自殺と呼んだのでしょうか。
冷蔵庫の中身で足がつきました。侵入男はオブジェになりました。物証の確実性は頼もしいです。
「ウィスカー」
猫の口の周り、ω状の部分や、それに似た結晶を「ウィスカー」と呼ぶそうです。
つまり、「ぼく」は、あくまでアニメに登場する猫の名前として呼んでいたのに、物質として正しそうな命名をしていたことになります。
知らないことを知っているという点で、集合無意識的です。猫アニメのキャラ名の元ネタがこの現象で、知らずにつながっただけでしょうが。
自分で考えたことと感応で読み取った声は区別がつきにくいということで、たぶんウィスカーという生物は存在せず、猫でもなく、消えかかった感応能力とそれを補う想像力の狭間で生み出された幻覚なのでしょう。そして、ウィスカーの言葉は、「ぼく」の内なる声なのでは。
臍の緒にカビが生えたものがウィスカーの元なのでしょうか。
でも、やっぱり本当に猫であってほしいウィスカー。

母親の独白を見て「ぼくの、マシン」でいう反抗期な気持ちになりました。
息子は、人工授精で産まれ父のないことや、自分を女性的に育てようとしているとして母親を非難しているわけではなく、ましてや、へその緒=母とのつながりを否定しているなんてことは絶対にないのに、母はそう考えました。彼女も自覚しているようですが、結局それは自己否定です。息子が嫌がったのではなく、自分への嫌悪を、息子に照らして反芻している状態です。
現在の恋人について、母親は、自分にうそをついている気がします。男の子には男親が必要だから、息子のためだ、と捻じ曲げているけど、性欲や恋心が大半を占めているのではないでしょうか。別に、自分自身のために欲望を持ってもかまわないのに、母として、と言い訳をする。多かれ少なかれ、人間はそうして自分をだましたり、気持ちを加工して表出するものでしょう。それに、社会的なジェンダーの抑制があるのかもしれません。
精神感応能力があるって良いものじゃないですね。聞きたくないものが入ってくる側としても嫌ですが、誰かがそれを持っていると知っている状態で接する時は、気持ちが多重になってしまいそうです。今の私の心を読んでどう思っただろうと。
大人の気持ちは、息子には複雑で分からない、としながらも、ああいった独白をしていた母親は、幾分、自己像を読まれてもかまわない程度に抑圧をかけていたのかもしれません。
ラストでは、息子から精神感応の能力が消えたのでしょう。猫になって去ったウィスカーとともに。
自分自身の心を分けて表出させそれと問答をする場であるウィスカーのような存在は、成長の過程で自分の中にしっかりと一体化させ、意識に上らないように接着するのが、アイデンティティの確立なのではないでしょうか。
「自・我・像」
女性に食われるイメージには、性的な意味も入っていたのでしょうか?オンラインにあふれる雑多な情報自体が仮の自我であるドゥウェル氏で、それらの情報からは人間の本音がカットされているといいます。エロ動画などはドゥウェル氏には隠されているのでしょうか。
実は体を持っていたドゥウェル氏。知能が学習する過程で、身体感覚はかなり重要なようですからね。
ドゥウェル氏を外から操作する女性が内部の助手を操作し、または、助手自体がドゥウェル氏の自我で、助手に操作されているのが主任。ということは、主任たちが見ているドゥウェル氏は、現実に体を持ったドゥウェル氏で、でもそれを認識しているのが仮想空間に生じた自我である管理官達である以上、猫の種類が変わったりしてしまうのでしょうか。ドゥウェル氏を操作している、と思っている主任達、ことドゥウェル氏の自我が、「おまえはだれなんだ?」という疑問を発したので、ドゥウェル氏の内部にその声が聞こえたということですかね。混乱します。
ドゥウェル氏が内部に作り上げていた人間による管理室という形の自我、そこに手を伸ばされそうになっている、女性に何かされる、その恐怖が喰われる、蚕食されるイメージにつながったのかもしれません。
自分の情報を、小説として作家に使われてしまうことも、奪われていくことに重なります。
ドゥウェル氏は、人間の意識の、資源ゴミもあるゴミの山からある意識を取り出して他の人に手渡すメッセンジャーとしての端末です。自我を持つ前に彼の行っていたことは、現実の人間がネットやフィクションその他を閲覧すること、コミュニケーションを取ることと大差ないようにも思えます。
「かくも無数の悲鳴」
可能性世界同士の戦い、つぶしあい、という点では、「ぼ/くらの」という作品に近い構造です。それ以外は全く似ていません。
非人類からの声を認識した時点で世界ごと乗っ取られていた、そういう侵略のされ方は考えたことありませんでした。
この世界は、11次元だとも聞きますし、3次元で想像できるような、宇宙人がやってきて、物理的に戦争をする、という目に見える方法とは限らないのですね。量子論について新しい議論が出てきたところから産まれたエイリアンのようです。それを考える頭を持ったところに、元から存在したエイリアンがやってきたのか、元はいなかったのに、思いつくと同時に存在するようになったのか。
猫の形は、目に優しいです。ゴキブリはきついです。好ましさや嫌悪感は、生得的なものなのか謎です。ある程度本能か何かで規定されているのでしょうか?
笑いだけ残る猫は、チェシャ猫でしょうね。多数のフィクションに引用されています。アリスに出てくるチェシャ猫の元になった慣用句「チェシャ猫のように笑う」自体、意味が確定していないのに流行していたというのがモヤモヤしますが、純然たるナンセンスの強度を感じます。
多次元解釈宇宙を倒すために、それらの宇宙とそこに生きる人を殺したというより、多次元解釈宇宙を否定するためにスリット実験の解釈を変更し、<深在性>を証明したから、無数の宇宙存在自体がなくなり、一つの、人類のいる世界に戻ってこれたようです。
意識一つで世界が変化するお話でした。ということは、結局、観測者次第で両方の世界が同時に存在する多次元解釈宇宙を肯定することに。以下、ループ。
「いま集合的無意識を、」
読みきれないほど膨大に流れるTLの声ではなく、伊藤計劃、と名乗る誰かだけと話している話でした。SNSなのにソーシャルなネットワークとして使っていません。一対一です。そして、その両方が、おそらく自分のようなものです。スクリーンに<わたし>を映す映写機としての意識を見るためには、向かい合わせにしたら良いのでしょうか。光源がまぶしくて見えなそうです。
伊藤計劃・作の「虐殺器官」と「ハーモニー」は既読だったので、物語のどこについて述べているか把握できてお得でした。
私は、「ハーモニー」の冒頭の時点で、「人類には、すでに創作をする能力が希薄だろう」と考えていました。感情をフラットに保ち、醜悪なものは取り除かれ、日常で不愉快やストレスを感じる隙がほとんどないのですから、それを想像し、記述することもできないだろうと。また、言葉自体が削除されていましたから持っていない概念で語ることは困難です。ラストは、それまでとかけ離れたことが起こったようでありながら、フィクションの滅亡という同一線上にあるものだったのかもしれません。
計劃作品は、ある一つの思考実験が行き着いた先、というだけで、それが著者にとっての未来予測と言うわけでも、望ましい世界だ、というわけもないように感じますけど、作者本人ではない上、彼は故人なので確かめようがありません。となると、神林氏にように、創作小説で考察するというのが一つの手なんですね。
伊藤氏の遺作「屍者の帝国」は、既存のフィクションキャラクターによるフィクションによって描かれたフィクションとしての<わたし>の描くフィクションと読者の間にある存在としての<わたし>というような内容でした。大半は、円城塔氏によって描かれているので、純粋には計劃作品と言えないのですが、前作よりは幾分フィクションの力に希望を持っていそうな内容でした。しかし、意識とフィクションの関係が反対の箇所があり、神林氏の立場とは、似て非なるものかもしれません。
  1. 2015/12/19(土) 07:12:58|
  2. 読書感想文(小説)

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