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同人漫画サークル

映画「ベニスに死す」うろ覚え感想

ベニスに死す [DVD]ベニスに死す [DVD]
(2010/04/21)
ダーク・ボガード、ビョルン・アンドレセン 他

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【あらすじ】
眼鏡で髭の中年男アッシェンバッハが、静養の為ベニスに行く。そこで、ビョルン演じる超美少年タッジオ(タジオ)と出会う。アッシェンバッハは、ひたすらタッジオをストーキングする。

【途中までネタバレなし感想】
大分前に見たので、記憶が曖昧の状態で書きます。
(2012/09/30劇場にてニュープリント版を見たので、少し追記しました。)

アッシェンバッハがチャーミングで間抜けで笑えて可愛かったです。
アッシェンバッハは、作曲家兼指揮者らしいのですが、最近スランプみたいです。
友達のミュージシャン・アルフレッドにも「自分の音楽と一緒に墓に入りたまえ!」と罵倒されるぐらい散々で、観客にも不評でした。

アッシェンバッハとアルフレッドは、「美」について激論を交わします。
それは、ベニスに来る前の回想だと思われます。
絶対的な自然の美と、芸術家の創り出す人工的な美、の事だった気がします。

よそ様のブログを参照した所、「芸術」「音楽」と、「悪魔性」「曖昧さ」「感情」の関係について、二人の意見はことごとく対立したようです。
アルフレッドはアッシェンバッハの真逆なので、つまり、彼は、アッシェンバッハを攻撃し、否定する事になります。

本編と違う時間軸で、「美」という概念そのものずばりについて言い争っている、要素をむき出しにして語っている、という点ですでに面白く、好きでした。この部分は、室内劇に近い印象です。

とにかくタッジオが美しいです。
少年らしい子供っぽさと大人っぽい色気の混じった、ちょうど中間期です。声変わりは終わっているか変わり切っていないくらい、です。
タッジオの男友達は、単なる友人なのかゲイなのか分かりませんが、割とタッジオにべたべたします。スキンシップ過多です。
タッジオ、お母様に対しては、まだまだお子様という様子でした。

タッジオが別の少年とじゃれあっているのを見たアッシェンバッハがうろたえるのですが、結局どうもできません。
何度も、おっさん、行くなら今だ!話かけろ!触れてしまえ!と思いましたが、アッシェンバッハは何も言えず、何もできません。
狭いエレベーターで、タッジオを含む少年達とすし詰めになっても、降りるタッジオを追う事はありませんでした。

アッシェンバッハが、写真に口づけているのを見て、この人変態?と思いましたが、あれは妻と娘の写真だったのですね。

水着姿で浜辺で遊ぶタッジオを、アッシェンバッハは新聞片手に見つめています。
その他の場面でも、新聞を持ってます。自分の姿を隠したり、視線をごまかすのに重宝するのではないかと思われますし、実際記事も読んでいるようです。
アッシェンバッハは、浜辺に似つかわしくないスーツと帽子姿で、何かを紙に書きつけていたように見えました。
あれは、楽譜ですか?
だとすれば、ダッジオの美しさ、彼から受けた感銘と、そこから生じた情熱や感情を、ダッジオ自身にぶつけ返すのではなく、芸術に変えようとしていたことになるので、まさに「昇華」と呼べる行為ですね。
その曲が完成していたら、アルフレッドに「やっと君なりの美を見つけたんだね。それこそが、君の音楽だ。」と絶賛されていたような気がします。

アッシェンバッハは、すごく必死で本気なのでしょうが、一言もお話してないタッジオに対し、本人が聞こえない所で愛を告白し、一方的に別れを告げている所が笑えました。独り言ですもの。ものすごい自己完結ぶり。しかし、とてもガチで切実。

アッシェンバッハは、タッジオとどうこうなりたい、とか、タッジオに好かれたい、とかそういうことではなく、タッジオそのものになりたいようにも見えました。
タッジオはアッシェンバッハをどう思っていたか分かりませんが、少なくとも存在を認識しているようで、アッシェンバッハとすれ違いざまに視線を合わせてきたり、ちょっと立ち止まってみせたりします。
アッシェンバッハに見せつけるように、ポールをクルクル回りながら歩くタッジオ。
その後、アッシェンバッハもポール回りやりかけてやめたんですよ。
タッジオには似合う行為ですが、いい年したおじさんがそれをしたらみっともないし、変人だと思われてしまいます。
(ただし、通路横に立ち並ぶ小屋の、柱部分だけに触れながら歩く。単なる体調不良で壁づたいに移動しているだけにも見えるけど、柱へのピンポイントタッチ=タッジオの真似に思えた。)

浜辺や地元の人々、タッジオの家族は、アッシェンバッハの挙動不審に気づいていたのでしょうか。
実際あんな人がいたら目立つと思うのですが、本気でスルーしているとしたら、「映画世界のベニスにおいて、アッシェンバッハを気にする人は、ものの見事にいなかった。」と、受け取け取ることにします。
メタ視点だと、演出上の都合、という感があって面白いです。
(舞台劇における、「ステージ上の死体役が歩いて退場しても、物語外の出来事として無視する。」「複数場面を同時進行で演じる場合、スポットライトの当たってないキャラクターが一定の姿勢で固まっていても、別に静止してるとは受け取らない。」などの、お約束みたいで。)

アッシェンバッハは、自分の老いや、醜さを恥じているようでした。(アッシェンバッハは、あの年齢として十分にかっこいいと思う。というか、あの年齢だから余計かっこいい。)

老いる事よりも、無理な若作りする事の方がよっぽど滑稽で醜いものなのかもしれない、と感じました。
原作未読なので、どういう解釈が物語のテーマとして相応しそうかは存じません。


仲間に砂のお城作りを指示するダッジオが、かわいかったです。

なんとか、人工美サイドにも勝ってほしい所です。芸術家がんばれ。いつか、自然美を超えられると信じて努力することで、たとえ超越できなくても、相当に美しいものが出来そうな予感です。

ダッジオの姿かたちは、ただそこにいるだけで「究極の美」という説得力を持つ為、少女に変更する案が却下され、ビョルンが選ばれてよかったです。
照明がダッジオだけに当たっている場面も多いですが、少し視線を外すと、暗闇の中で静止しているホテルマンのシルエットも美しかったりします。

橋を渡るダッジオ一家や、日傘を持って移動する婦人群、華やかな帽子、など何の意味があるかはまるで分からないけれど、印象的、という美しい場面が沢山ありました。
ダッジオの座り方、ポーズ一つをとっても、しっかり監督の指示が行き届いていそうです。
メイキングを見たら、監督の髪の生え際や眉毛、仕草がアッシェンバッハと似ていました。監督は、小説の「文字を読む」のではなく、「イメージを見る派」らしいです。
読んだ側から、情景が映像で浮かぶのでしょうか。
映画作りでも、カメラ位置や人物の立ち位置など、精密にこだわって撮り直してましたし、感性が特殊なのかもしれません。
先ほど、印象的と書いた場面もメイキングに収録されており、何気ない移動行為にまで、明確なヴィジョンを持って撮影していたのだなと感心しました。

ダッジオ抜きで見たら、彼の幼い妹、母親、娼婦も超絶美形でした。

アッシェンバッハと友達音楽家アルフレッドのモデルらしい、作曲家グスタフ・マーラーとアルノルト・シェーンベルクについては、まったく存じ上げません。作中使用されていた楽曲は、マーラーのものだそうです。
今、マーラーのwikipedeiaを見たら、ルックスもアッシェンバッハに似ていました。

【以下、ネタバレあり感想】

びょるんブログ

アッシェンバッハが心疾患かなにかを患っており、発作で倒れる事があると言う事と、「死す」というタイトルから言って、最後はアッシェンバッハが死んで終わりだろうなと予測できました。

アッシェンバッハの死因は、持病とベニスで流行している死の伝染病(コレラらしい)のどちらでしょうか。
「美に殉教する」「美に焦がれ死ぬ」という勢いでした。
wikipedia等には、「自分が伝染病でもうじき死ぬと分かったので、死に化粧をした」とありますが、本当にそうでしたか?
私は、アッシェンバッハが「自分は惨めな老人になってしまった」と自己嫌悪に陥っている時に、美容師にそそのかされ、その気になって少しでも綺麗になったつもりでいた、と感じました。

ラストシーンの受け取り方は、「老いて醜くなり、ダッジオの美には届かなくて、ましてや若返ってダッジオになることなんて到底できなくて、髪を黒く染めて化粧をしてみたけれど、元よりかっこ悪く、観光客向けバンドの客引きピエロと大差ない男となってしまったアッシェンバッハが、心地よい完全敗北を期し、圧倒的美の眩しい光に包まれて、安心しながら、最高に幸せに、しかし、無念の中、死ぬ。」でよろしいでしょうか。
最期、化粧は崩れまくっていました。うわべだけ塗っても汚く流れ落ちるんですね。
バッドエンドは最初から決まってたとして、アッシェンバッハ的には、ベストかつトゥルーなエンドかと思います。

アッシェンバッハが唯一ダッジオに触れ、言葉をかけたのは、「伝染病が流行っているから、お子さんを連れて避難してください」と、ダッジオのお母様に言うシーンだったと思います。ダッジオに何を言ったかは忘れました。
ダッジオのアッシェンバッハを見る目は、常にイノセントというか、フラットというか、何なんでしょう、あの不思議な感じ。好意も嫌悪もく、きょとんとしつつも、何かを見透かしているような眼差しです。

劇場で見直して、上記のシーンが、現実か想像か分からなくなりました。
ダッジオに触れた直後の場面で、また、映像が役所(ベニスにペストが蔓延していると教えてもらった)に戻ったように見えたので。
想像だとすると、一度もタッジオに触れ、会話してないことになってしまうので、本当のシーンだと思いたいです。他の場面は、全て「現在または過去の現実」確定のようですから。
以下、リアルの線で進めます。

アッシェンバッハは、娘を亡くしていますし、奥様も鬼籍に入ってるんでしたっけ。←存命だったら、失礼。原作だと、妻を亡くしてからベニスに旅立ったらしい。
これ以上、若く美しい、愛する者を失いたくはないですものね。
物理的に最大限近づいたのはこの時でしたが、その割には、ダッジオを一人の独立した人間、他人の息子、として扱っているような、ちょっとした距離感も感じました。
事実を知る大人として、父兄への注意勧告をしているのです。
ここで取り乱したら、母親に怪しまれて、言う事聞いてくれませんしね。
「お宅の息子ダッジオ君が大・好き!なので絶対に死なせないようにすぐ逃げてね!お願い!お母さん!頼むよ!」とか言えないです。(アッシェンバッハが、ダッジオの名前を知っているのは、ストーキングの成果。本人に直接聞いたからでも自己紹介したからでもない。)

タッジオと目が合う事が多いのは、常に彼を見ているからだと思ってましたけど、ダッジオが一方的にアッシェンバッハを見ている場面もあるんですね。
アッシェンバッハが浜辺にてテーブルの上に気を取られている時、タッジオが先に見つけて立ち止まっているようだったのです。

アッシェンバッハが途中ゴスロリっぽい縞ソックスの娼婦にお金を渡してるんですが、買ったんですか?お金だけ渡して逃げたんですか?  娼婦のアップされていた髪が下りていて、かつ、不満そうな顔なので微妙ですが、多分、買春したんだと。(原作未読)
DVDを一度だけ見た時は、「アッシェンバッハが、ピアノの音を聴いて、『ダッジオが弾いてる』と思って近づいたら娼婦だった」という風に勘違いしてました。
が、逆のようです。
ダッジオを見て、昔の娼婦を思い出したんですね。
これにより、「ダッジオの代替品として娼婦さんを抱いたんじゃないか疑惑」は晴れましたが(時系列が逆なので)、どちらにせよ、娼婦とダッジオのイメージは連動しているようです。
引いている曲は、二人とも「エリーゼのために」です。
タッジオのはワンフレーズだけで、彼がピアノを離れてもリピートが続くので少し怖いですが、娼婦の回想で曲が次のパートに進んでくれるので助かります。

アッシェンバッハからは、直接ダッジオへはたどり着かないし、たどり着けないようにしてありました。
娼婦の名前は、エスメラルダで、これは、アッシェンバッハがベニスの島へ行く時に乗っている船と同名だそうです。(ソース元未確認。ニュープリントも遅刻で見そびれた。)
アッシェンバッハが地元を離れ、ベニスの駅と島を橋渡しするのがエスメラルダ、という扱いなのでしょうか。

あくまでもアッシェンバッハ⇔エスメラルダ⇔ダッジオという三者による関係であり、アッシェンバッハ⇔ダッジオが直接結びつきを持つのは極めて困難、という表現に見えます。
二人は、海で隔てられているのです。これは、結末とも合致しています。
「絶対的な壁はあれど、それは透明なので、互いを視認する事は可能」という状態です。その壁には、手を伸ばせば突き抜けらる程度には柔軟性があります。ゲル状?

アッシェンバッハは、ダッジオに出会わなかったら、死ななくて済んだのでしょうか。
ダッジオがいなくても、駅員のチケット販売ミスやら、「もう汽車出てしまいました」やら、「次の船は数日後」やらで、ベニスから逃れられなかったのかもしれません。(観光地としては、伝染病は命取りだから蔓延を隠していた。この辺、社会派ミステリー・ホラーっぽくて楽しかった。ベニスという都市そのものが病んでいる。アッシェンバッハが帰り損なったのは、単なる偶然か、それとも、感染者を隔離する為の故意か。アッシェンバッハが地元帰ってから発病したら、ベニスで菌貰ってきたんだとバレるし。)

アッシェンバッハは、足止めを食らった駅から、一度決別したはずのベニスに戻ります。
駅員には、あんなに怒ってみせたのに、すごくウキウキして。
ダッジオがいるからです。
あの嬉しさを隠せてない所がかわいくて笑いました。

心臓病ではなくペストで死んだとして、いつ感染したのでしょうか。
パンフレットだと、駅から引き返さなかったら、病死を免れた可能性について書かれていましたが、私は、その前の時点で感染してたのではないかと考えています。

最初に報告された死者の内一人が青果屋のおかみさん。
この時期に非加熱の果物なんて食べるもんじゃない、という浜辺の客。

アッシェンバッハは、タッジオが友達の少年に頬キスされているのを見た後、狼狽えつつ、生の苺を食べます。
タッジオも苺を受け取りますが、はっきり「食べた」と確認できませんでした。
また、タッジオは後日、オレンジを受け取っていますが、これもお手玉のように遊んでただけです。

ペストの主な感染源は水だそうですが、非加熱の果物や野菜からもかかってしまうそうです。
というわけで、感染源は、「タッジオの事で頭いっぱいの中、上の空で食べた苺」なのではないかと思います。

アッシェンバッハにとって、ダッジオは、死神かそれに似た神様、天使のようなものだったのですかね。
アッシェンバッハを死の淵まで引き寄せ、アッシェンバッハに死を宣告し、アッシェンバッハを看取る、(その後、どこかに連れてゆく?)というような役割の。
ダッジオは、無自覚かと思われます。彼は、ただ、家族と共に、日々を過ごし、存在していただけです。
アッシェンバッハをベニスに呼んだのも、アッシェンバッハを病気にしたのも、ダッジオではありません。アッシェンバッハが勝手に一目惚れしたんですから。

アッシェンバッハが静養に行ったきっかけは、おそらく、音楽活動がうまくいかないストレスと持病の悪化からでしょうから、自滅とも言えます。
やっぱり友人の言う通り、「音楽を死産したので(←ニュープリント版ではこの訳じゃなかった)、自分の音楽と一緒に墓に入る」羽目になったのでしょうか。
友人アルフレッドの物言いは、キツく残酷だけど、きっと真実で、かっこいいので好きでした。
回想の中で、アッシェンバッハが持病で倒れた時、手を握って本気で心配してましたし友情は本物でしょう。
ただ、そこで「休養した方がいい」と言ったのもアルフレッドではなかったでしょうか。

アッシェンバッハは、「バランスをとる」とか「清く、誠実にいる」ということにこだわるあまり、音楽までもが「平凡」になってしまったようです。
アルフレッドは、悪魔性などが芸術と美には必要だと主張していたようです。
美は最初からあって、それを闇のモヤから掬い取るのが芸術家。その為にはよからぬ手段もつかってよし。黙って手をこまねいても、現実がそれを照らすことはない、とか、そんなニュアンスの事を言ってました。

芸術家が掘り起こすまでもなく、奇跡的に表出している美が、ダッジオなんだと思います。
そのようなわけで、ホモ・セクシュアルとか禁断の愛とかという印象は、かなり薄かったです。
あんな綺麗な人、目で追うに決まってるでしょう。
もしダッジオが少女だったら、14歳ともなれば、妊娠可能、ゆくゆくは結婚することだってあり得ます。どこか「恋愛」「生殖」が入りこんでしまいそうで、「美」という軸がぶれます。だから、少年で良かったです。

アッシェンバッハは、なるべく不道徳から離れ、生きてきたのだと思います。娼婦の件以外。
では、煙草には「悪い」というイメージないんでしょうか。
アッシェンバッハとアルフレッド、二人とも吸ってましたけど。単に、コーヒー・紅茶程度の嗜好品扱いなんですかね。

同性愛や少年愛、ショタコンに、かすってはいるけれども、少し色合いの違う愛情で、それは、自己愛、同一化願望、崇拝、憧れ、慈悲、プラトニック・ラヴの類だったように思います。
性愛や劣情は、エスメラルダにでもぶつけてれば良いのです。彼女が緩衝材になってくれるでしょう。
  1. 2011/12/14(水) 20:32:47|
  2. 映画感想

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