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伊藤計劃「ハーモニー」

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ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)
(2010/12/08)
伊藤 計劃

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【あらすじ】
21世紀後半、<大災禍>(ザ・メイルストロム)が起り、世界中に核弾頭が落ちた。放射能により癌患者が増え、未知のウィルスも溢れ出した。
世界は、政府を単位とする資本主義的消費社会から、生府(ヴァイガメント)を単位とし、構成員の健康と命を第一に考える医療福祉社会に生まれ変わった。
人々は、体に医療的監視システムWatchMeをインストールし、恒常性を保っている。
生府の配布するコードは、個人用医療薬精製システム(メディケア)にダウンロードされ、それは、病原体を滅する医療分子(メディルモ)を合成する。
その為、人々は、病気(遺伝的で避けられないものを除く)を未然に防がれ、頭痛や風邪も経験することはない。
優しさと相互理解に包まれ、醜悪なものは取り除かれた世界。「あなたは、社会の一員として欠かせない人間なのです。」という「人的リソース意識」。公共物としての大事な命。
既にデッドメディアとなっている(紙の)「本」を読む変わり者の少女ミァハは、そんな自由、博愛、平等の行き届いたこの世界を嫌悪していた。
ミァハは、友人少女のキアンとトァンに、拒食による自殺を持ちかける。
これは、生府の財産、インフラである体を傷つけることによる、生府への攻撃である。
大人になればWatchMeを体にいれなければならない。そうなると、栄養不足は健康コンサルタントのサーバに通達され、救急車を呼ばれるだろう。
自殺するには、少女である今しかない。

【途中まで、ネタバレなし感想】
著者インタビューを含むあとがき解説によると、当初、キャラクターの性別を決めないで書かれたのだと言います。
女性にしたのは大正解だと思います。
WatchMeを体に入れるのは、大人になってからです。成長中は恒常性がないので、現状を維持する為の監視をしても意味がないからです。
そのことについて、冒頭
ハーモニー引用1
と、書かれています。

まだ、WatchMeがなんだかよくわかっていなかったので、男性器の隠語か!?などと恥ずかしい勘違いをいたしました。
もしくは、【堕天ワード】、【censored】、【禁則事項】、【らりるれろ】みたいな自主規制や、口にしてはいけない言葉なのかと。

男性だって、子供と大人の体つきは全然違いますが、女性は、胸が膨らむのでその変化が一目瞭然です。
さらに、他者、異物に入り込まれる感も、女性の方が表現上適しているものと思われます。(作者の過去2作でも、人々の体にはナノコンピューターが入ってたけども、キャラクターを男性から少女に代えただけでこのいかがわしさ。)

自殺するに当たり、拒食による餓死を選ぶ、そして、それをカリスマ的な少女に影響されて決行してしまうというあたり、男の子より女の子の方がしっくりきます。(キャラの性別決めてからこの死に方にしたのかもしれませんが)拒食症は、女性の方が多いですからね。その人達は、別に死ぬ為に食べないわけじゃないですけど。

ミァハは、体を医療的な「言葉」に置き換えてしまうWatchMeを入れられたくありません。生府の一員として取り込まれてしまうからです。
「わたしはおとなにならないって世界に宣言してあげようよ。(このからだは)は、ぜんぶわたし自身のものなんだって、静かにどなってやろうよ」と言いつつ、別の箇所で述べている「自分達の体は生府の財産でインフラだ」という発想、「それを単に傷つけるのではなく健康を嘲笑うやり方をしようよ」「奴らから体を取り戻してやる」という考え方からしてもう、自分が生府の末端、大きな全体の中の一部だと認めている証拠ですよね。
自意識、「わたし」、主観、魂、こういうものについての考えすぎは禁物ですが、少しでもそういった意味での「たった一人のわたし」という感覚があれば、自分を傷つけたり滅したりすることで、セカイに攻撃しようとは考えないと思うんですよ。
「ハーモニー」内で普及している、「公共物としての私」(パブリック・ボディおよび人的リソース意識)という仕組み・義務をすでに負っているんですね。別にWatchMeを体に入れていなくても。

主人公トァンと変わり者少女ミァハは偶然出会ったわけですが、ミァハがトァンを友達、というより革命的な自殺の同志に選んだのは、トァンが元々持っている死への衝動を察知してたからなんですかね。
トァンは、ミァハに出会う前に過食障害でセンターに運ばれています。その時死ぬつもりなどなかったわけですが、すでに未分化の死への衝動を持っていたのだろうと、トァンは、後に考えています。

「人的リソース意識」を持っていれば、自分の体も他人の命も、生府の大事な資源として傷つけることはできません。子供同士でもそれは徹底されているため、いじめは存在しないのです。

「いじめ」という言葉も現象もデッドメディアである「本」でも読み込まなきゃ、一般人は知る由もありません。
また、「デブ」という言葉は、肥った人の人格を著しく傷つけるものとして、自然と使われなくなり、その後、WatchMeの普及で肥満そのものもなくなりました。皆、標準体型を維持しているのです。
中指を立てるしぐさもなくなり、それを意味する「Fuck」という英単語すらすでに消滅しています。
「煙草」「酒」は、体を傷つける物質で健康に良くないから社会から締め出されています。
戦場での取引でのみ、ギリギリ手に入るというもののようです。これらを摂取することはささやかな自傷であります。
煙草を吸うために戦場に行く28歳女性、というのが面白いです。
「カフェイン」規制派もいて、そろそろコーヒーなどの嗜好品も追い出されつつあります。カフェインが様々な身体的、精神的不具合を引き出すことがあるのは、現代でも知られていますからね。規制派には、いくつもの科学的な根拠があり、また、やたら決め付け、断言を行うものだから、凡庸で曖昧な理論では太刀打ちできないのです。

いじめや売春のない社会なんて素晴らしいものなわけですが、「いじめ」「売春」という単語と概念そのものがなくなっていて、考えることもそれについて話す事も非常に難しくなっているというのは、人類として退化のようにも思えます。
ミァハのように昔の事を沢山勉強している人には意味が分かっていますが、他人と話す時は、その意味を別の長い言葉で説明しなくてはなりません。
トァンは、ミァハから話を聞いてもなお、「いじめ」というものがどんな状況なのか具体的にイメージできないのです。(15歳時点で)

本の裏表紙に「ユートピアの臨界点」と書かれています。確かに、楽園ではあるんですよ。
皆が健康で互いを思いやり、長生きできる世界ですし、心的外傷に触れそうなフィクションや画像はあらかじめ警告してくれますから、うっかりダメージを負う心配もありません。

でも、この極端に人間が管理されている全体主義的社会、言語とともに概念がガンガン削除されている世界って、典型的な(?)ディストピアですよね。
ディストピア作品で語彙を減らしていく場合、体制に反対しようと考えることすら出来なくするため(政府に逆らうための言葉自体がないので発言も実行もできない)、という意図があったりするみたいですが、ハーモニーの場合は別に人民を騙して黙らせ統制するという明確な目的はなく、とにかく半世紀前の<大災禍>(ザ・メイルストロム)と病気蔓延がトラウマ過ぎて、その反動で極端な健康福祉社会になっただけで、結果、言葉が自然消滅してしまったのです。

まだディストピアものは少ししか読んでませんが、この「ハーモニー」世界の住民は、他作品に比べて自由と人権を与えられている方だと思います。
とは言え、個人情報の保護はなされていません。すべての人間は、名前、年齢、職業、社会的評価(ソーシャル・アセスメント=SA 料理屋の☆みたいなの)、健康保全状況のタグを公開しながら過ごしているんですよ。
拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)を通せば、皆の背負う「看板」が見えます。(今でいう名刺を常にオープンにしている状態)
ですから、「プライベート」という言葉は、性的なものに関する部分だけを表しており、人前ではおおっぴらにいえない卑猥な言葉という認識になっているのです。
まだ、性の部分が秘密であるという点では、他のディストピアよりはマシかもしれません。それすら管理されてる作品もありますからね。
この、ぬるま湯に浸かりきった優しい世界、しかも粛清や罰で押さえつけるといういかにもな恐怖政治も行われていない、というのがまた、完全否定はできないけど、どこかがおかしい楽園って感じで絶妙ですよね。

この時代に作られるフィクションは面白くないでしょうね。暴力表現が禁止なくらいだし、きっと犯罪も性も描けません。
フィクションの作者も、日常で葛藤や不快感、強い怒りなどを感じる機会が少ないでしょうから、作中の心理描写もかなり薄くなりそうです。
大昔に存在した映画は、全書籍図書館(ボルヘス)に保管されてはいますが、それを閲覧するためには「心的外傷性視覚情報取扱資格」が必要です。一般人には見られないのです。

ジョージ・オーウェル「1984年」に登場する、「二分間憎悪」という架空の行事、これを引用するどころか実践しちゃってるので、いよいよディストピアです。
「1984年」では、政府の敵(とされているけど実在しない可能性もある)ゴールドスタインとその一派が映し出されたテレスクリーン(双方向テレビ)に向かって激しい怒りを憎しみを爆発させるという日課ですが、「ハーモニー」では、こってりと脂の乗った、不健康な食べ物の映像を嫌悪するというイベントです。
そうすることで、あんなもの食べちゃ駄目だ!という気持ちを新たにするのです。

作中、公共性とリソース意識を持つことを、命を人質に【誓わされている】。というようなことを書いてあります。
規制が穏やかなようで、実は、相当きつい拘束がなされているんですね。
「自分と皆を大切にする」という約束事は、断ろうにも断れない全人類への強制なのです。(それが悪い事とは言い切れないのがずるい)
主人公達がそれに反発するやり方が自殺だったのもうなずけます。
自分の命と体が自分だけのもので、無意味なものだと証明したいという。
上でも書きましたけど、その時点でリソース意識に囚われていることになりますけどね。

キアンが、苦痛を感じた事で、自分が神経系を有する生き物なんだと気づいて怖くなるというシーンがあります。
病気がほぼ駆逐されている世界では、苦しみや痛みを感じることは滅多にありません。
そこで、主人公たちは出会ったのです。
【痛みをちょうだい】
どうも「ハーモニー」世界の住人は、人間が生物の一種だと言う感覚が薄いようなのです。現在でも、知性と文明を持った人間は、動物とは違うって感覚がありますけど。

煙草と酒が、生きがいや楽しみの人だって大勢いるでしょう。
体によくない嗜好品、心によくない創作物、下品な娯楽、それらがない世界でずっと長く生きていて、果たして幸せと言えるか。…というような事を描き出すお話かと思ったら(十分すごいけど)、それどころじゃない展開をして驚きました。

著者が、前々作「虐殺器官」で提唱していた事が、より具体的になっています。そのものずばりはっきり述べている箇所がありました。これは、後で、ネタバレゾーンに書きます。
で、さらに、そこを超えてしまったのが物語後半なのでしょう。

本文中、気づいただけでも、様々なパロディネタがありました。
例えば、

【「ただの人間には興味ないの」
 とあっさり言い放つ。まるで、宇宙人や超能力者でも持ってこなければ話にならん、と求婚者に理不尽を告げるかぐや姫のよう。】

これは、ライトノベル「涼宮ハルヒの憂鬱」において、ハルヒが高校入学してすぐの自己紹介で言ったセリフ

【「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら 、あたしのところに来なさい。以上。」】

を意識してますよね。中学時代のハルヒは、男子に告白されたらとりあえず付き合って、その人が面白くなかったら速攻で別れて来ました。その様子も、かぐや姫のようです。そんな無理難題(ハルヒの退屈を解消するには、よっぽどオカルトやSFみたいなことがないと駄目)答えられるわけない、という。 ただの人間…。

「ハーモニー」に話を戻すと、

【さすがにここまで言われては、好き好き大好き超愛してる裏返しのワガママだとか】

は、舞城王太郎さんの「好き好き大好き超愛してる」から取られてそうですし。(作中キャラの病状が計劃氏とにており、テーマにも共通性がある。)

【わたしたちの前でそっと指を開き、わたしたちにとってたったひとつの冴えたやりかたを提示してみせる。】

「たったひとつの冴えたやりかた」は、有名SF小説の邦題ですね。(要素や状況は複数一致するが、全体の印象は全く違う。)

こんな調子で、既存作品のセリフやタイトルを、ごく自然に文章に取り込んでいるんです。
こういうのは、パクリとは言わないですね。むしろバレろ、分かった人だけニヤリとしろ、というもので。
著者的には、病床で書いていた作品ですから、少しでも自分の愛した文学やフィクションを自作品に詰め込み遺したかったのではないでしょうか。
【追記】気付いた分の「元ネタ」を全部読みました。どれも、「ハーモニー」本編や著者自身と結びついており、洒落にならないくらい真剣だったようです。ふざけ半分のお遊びやパロディではないんですね。でも、ユーモアの一種ではあると思います。【追記おわり】

巻末インタビューに、設定などのロジックを考えるのは好きだが、エモーショナルな肉付けが苦手。だから、今病院にいて治療を受けているというこの状況からスタートし、なぜこういう医療体制になっているんだろうと考える。そこから生まれた切実なロジックをキャラクターが喋る事で、切実なエモーショナルが生まれるのではないか、とありましたが、もう、切実過ぎて、読み終わってからも度々深淵に引きずりこまれそうになりました。
「心的外傷的図書」もいいところでした。
「ハーモニー」の世界なら、本作「ハーモニー」を読めなかっただろうと思うと、まだ幾分規制のゆるい世界でよかったです。

「ハーモニー」の医療福祉社会に近いものを史実上実際に目指し、政府が煙草・アルコール対策室を設け、障害者に対する差別的な言葉を是正したのが、ナチス・ドイツだそうです。

【以下、ネタバレあり感想】
【“伊藤計劃「ハーモニー」”の続きを読む】
  1. 2011/02/15(火) 00:32:43|
  2. 読書感想文(小説)

内澤旬子『センセイの書斎 イラストルポ「本」のある仕事場』

センセイの書斎---イラストルポ「本」のある仕事場 (河出文庫)センセイの書斎---イラストルポ「本」のある仕事場 (河出文庫)
(2011/01/06)
内澤 旬子

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イラストとエッセイによる、書斎レポートです。
学者、研究者、翻訳家、作家、建築家など、日頃、本を資料として活用している人達の書庫を、著者が取材します。

エッセイ部分は、著者自身の言葉による書斎紹介と、本棚の主によるインタビューから成り立っています。
イラスト部分には、部屋を真上から見た全体図とその書斎の特徴が出ている箇所のアップ、取材対象の似顔絵などが描かれています。また、本のタイトルや、ジャンル分けなど、細かい手書き文字がびっしりで、それを見ているだけでも楽しいです。

書庫のレポート絵には、本棚と関係ない室内のインテリアや置物が描かれていてそれを見るのも楽しいです。
西部劇好きな作家さんなら、ガンベルトが壁にかけてあって、PCの壁紙まで銃だったりしますし、他にも豚のぬいぐるみ収集家や、猫の置物とリアル猫の混在する部屋も。
書斎は、その作者の脳内や趣味趣向が反映されたものなのかもしれません。

部屋が散らかりすぎて、乱雑に本が積み重ねてある書斎は、イラストが緻密なだけに面白いです。これは、もう本棚でも書斎でもないだろう、という感じで笑えますが、これがこの先生なりの知識の扱い方なんでしょうね。

お堅いお仕事の先生でも、軽い感じの雑誌や漫画を所有していて、本棚の一角をそういうコーナーにしてたりするんですね。
趣味で漫画を読むのは分かるのですが、仕事用の研究書や全集、哲学書などと一緒の書斎に置いてあるのが意外です。

沢山本を収集しているような人は、もっと本という形式、紙質、手触り、重さ、装丁などを大切にしているイメージがあったのですが、今回取材された31人は、皆がそうだというわけではありませんでした。
古書コレクターなどは、保存状況に留意し、本の過ごして来た長い時間も含めて愛好しているようですが。

本の内容は、本来形のないものだから、本はかりそめの姿だと捉えている方がいました。
また、本を必要な所だけちぎる、残りは捨てる、というような激しい方も。
アンダーラインを引きまくる方や、付箋を貼りまくる方もいて、とても、本を美麗な状態で残しておこうというつもりがありません。
研究対象として、資料として本を読む方は、引用予定の箇所や、気になる記述にチェックを入れるのは当然でしょうから、一般的な本愛好者とは異なるのかもしれません。

セイセイの中には、ご年配でも、早くからインターネットを使い始めた方が数人いらっしゃいます。
翻訳家もコンピューターを利用していますし、作家達もCD-Rや電子辞書などのデータ形式のものを普通に使っています。
別に紙という形式に強くこだわっているわけでもないんですね。
ただ、完全に本がいらないかというとそんなこともないのです。
ある人は、電子メディアは自分の選んだ項目しかでてこないから、視野が狭くなる、とその欠点を指摘しています。(彼女も電子メディア愛好者)
一方、紙の媒体ならば、読むつもりがない箇所もパっと目に入ってきて、それが新しい発見に繋がることもあるのです。
だから、紙媒体も電子媒体も両方必要、と結論付けていました。
今は、既存の新聞や小説などが電子メディアに移行している真っ最中なので、その内、紙の本自体なくなってしまうのかもしれませんが、ランダムで意図していない情報に目に入るという紙媒体の良さは継承した方がいいのかもしれません。
現在のインターネットで、「興味がなくてもその情報に出会ってしまう」といえば、twitterのRTで回ってくるツイートや、2ちゃんねるまとめアンテナで羅列される記事タイトル、ニコニコ動画のランキングなどがあるでしょうね。

テーマ:読書感想文 - ジャンル:小説・文学

  1. 2011/02/09(水) 22:11:48|
  2. 読書感想文(小説)

フランソワーズ・サガン「悲しみよ こんにちは」 河野万里子 訳

悲しみよこんにちは (新潮文庫)悲しみよこんにちは (新潮文庫)
(2008/12/20)
フランソワーズ サガン

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【あらすじ】
17歳のセシルは、プレイボーイの父と、その恋人エルザとともに、別荘でヴァカンスを楽しんでいた。
そこに亡き母の旧友アンヌが合流する。現在42歳。彼女は、理路整然とした思考回路を持ち、上品な人だから、騒々しい父やその仲間、そして自分をバカにしているのではないか、とセシルは思っている。
カンヌでギャンブルをした翌日、アンヌと父の結婚話が持ち上がった。一夜にして突然のことだったが、内心バランスのとれた穏やかな生活に憧れ、周囲を見下していたセシルは、自尊心と優越感から、二人の再婚に賛成する。
しかし、セシルがボーイフレンドのシリルとキスしている所を目撃したアンヌは、シリルへの教育を開始。以降、セシルは、アンヌへの反発心を強め…。

【途中までネタバレなし感想】
この物語は、恋愛をメインに描かれているのですが、計略、陰謀、悪意といった要素が強いので、あまり「ラブストーリー」という印象がありません。
人間の本質を描いた「文学!」という感じがします。

17歳の女の子セシルが、一連のエピソードを通して、精神的にも肉体的にも成長するのですが、必ずしも良い意味の「成熟」ではないようです。
タイトル通り、「本当の悲しみ」という感情を新たに獲得するのですが、その対価は、あまりにも大きいものでした。
これが、偶発的で外から勝手にやってきた出来事なら、セシルもただ黙って受け止めたでしょうが、セシルが自発的に行動した結果こうなってしまったのです。だからこそ、悲しみを感じる事もできたわけですが。
早い段階で、セシルは、オスカー・ワイルドの言葉<罪は、現代社会に残った唯一の鮮明な色彩である>を実行するよりもはるかにしっかりと、揺ぎ無い確信を持って自分のものにした」と考えています。
セシルの罪は、法律的には裁けないものでしょう。因果が実証できないのです。

主人公セシルは、【わたしはこれからどんな形にでもなっていく素材にすぎないから。でも、型にはめられるのはお断りだという素材なのだ。】と認識している為、【教養のあって育ちの良い幸福な娘】に仕立て上げられるのが嫌なのです。
【わたしにはよくわかる。どんなに簡単にわたしたちが、不安定なわたしたちが、そうした枠組みや責任のなさの魅力に負けてしまうか。あの人はやり手なのだ。】
「あの人」というのは、父の再婚候補者であるアンヌのことです。
恐らく、アンヌは、別に主人公達を罠に嵌めて自由を奪ってやろうとか思ってないです。ただ単に、あたりまえの幸福な家庭を築きたいだけであって、他意はないのでは。
でも、セシルはそれを悪く取ってしまうんですね。
少女から大人になる事の、もしくは、今まで幸福と信じていた世界が変わる事への、漠然とした不安感がそうさせるのでしょうか。
セシルは、【あの人は有害で危険】【私たちの道から遠ざけなければいけない】と拒否感をつのらせています。
アンヌが来た事による精神的変化の原因ついて、セシルは、父への倒錯した愛でもアンヌへの不健全な情熱でもなく、ボーイフレンドのシリルといられないことだと自己分析しています。

異性交遊を禁じられ、「もっと勉強真面目にして試験に備えなさい」と言われたので父の再婚相手に反発する、という部分だけ見ると、えらく普通の17歳少女です。

セシルは、アンヌを全面的に憎み敵視しているわけではありません。むしろ、「アンヌは正しい」と内心認めている、本当は自分もそうありたいと憧れている、というのが混じっている所が、やけにリアルで、作者が当時18歳だったというのが信じられない程の心理描写です。
少女を描けるのは同年代だからまだ分かるとして、40代男女のそれぞれの心の動きまで計算して書けてる(と思う)のは、どういうことなんでしょうか。
セシルは、自分の計画が、父とアンヌにどういった作用を与えるか熟知しているのです。想定外の部分もありましたが。それは、父がどういうつもりで女性を愛しているか、各対象ごとに分析できているからなせる技なのです。
女性が魅力的で美しいから愛する、というだけではなく、その女性を手に入れることの付加価値(周りからの羨望、こんなプライドの高い女を俺はモノにしたぜという自尊心と優越感)が重要なんですね。父が自覚しているかは分かりませんが。

セシルの「計画」というよりもう「陰謀」ですが、
【でも、アンヌは私を思索する人間とみなしていなかった。それを誤りだと気づかせるのが、わたしには突然、なにより重要な、差し迫ったことに思えてきた。】
【わたしがどれほど<ほんとうにびっくり!>な人間かアンヌに教えたくて!】
という文章から、セシルは計画実行後の生活を単純に楽しみにし、願っているだけなのではなく、「アンヌに自分の力を認めさせたい、わたしだってちゃんと考える頭を持った意思の強い女の子なんだと知って欲しい」という気持ちの強いことがうかがえます。
このあたりも、人間の後ろ暗い情熱に触れてしまってる感があって面白いです。

冒頭、「悲しみ」について
【ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというものは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。悲しみ―それを、わたしは身にしみて感じたことがなかった。ものうさ、後悔、ごくたまに良心の呵責。感じていたのはそんなものだけ。でも今は、なにかが絹のようになめらかに、まとわりつくように、わたしを覆う。そうしてわたしを、人々から引き離す。】
と書いています。
わたし=セシルが、この物語の後に書いた文章という設定です。本編は、過去を振り返って語る形式なので。

「悲しみ」の定義が、一般的なものとやや異なるようです。

「狭く閉じた美しい世界に第三者がやってきて、その暮らしが崩壊する」というあらすじの作品は割と多いと思うのですが、どれも、外から来た者を異分子、破滅を招く悪魔、みたいに描く割に、実際には主人公サイドの方が、狂っていたりします。最初に「美しい」「幸福」と信じていた状況自体が病んでいるという。
セシルの企み自体は、そう高度で狡猾なものではないと思うんですが、他者を巻き込んでまで実行してしまう瞬発力が危険です。
小悪魔少女どころかピカレスクな勢いです。

【以下、ネタバレあり感想】
【“フランソワーズ・サガン「悲しみよ こんにちは」 河野万里子 訳”の続きを読む】

テーマ:読書感想文 - ジャンル:小説・文学

  1. 2011/02/09(水) 10:26:14|
  2. 読書感想文(小説)

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